2010年01月15日
秋田の聖母出現 その2
<天使の働き>
秋田の聖母出現の場合、ルルドやファティマと比較して特徴的なのは、天使の目覚しい働きぶりです。聖母への取りつぎのみならず落涙現象の解説まで引き受けています。当初、ルルドやファティマのときと同じく、公的なテキストのみに注目して他は省略しようと思っていました。しかし、テキストを何度も読み返すうちに、これはひょっとして日本が、カトリック信者が1パーセントに満たない宣教地だからではないかと思い当たりました。霊的な戦いの激しさを垣間見るような思いがしてきたのであります。
ルルドやファティマの場合では、すでにカトリック信仰のための文化的素地が出来上がっていました。従って、出現があっただけで周囲は待っていたように素直に聖母と直感して、先へと進んでいきます。秋田の場合には、天使が「マリア様」とはっきり明言しても、出現を受けた修道女や修道会までもが疑念や不安に揺れ動いたのです。この不安定な霊的状況は、日本のカトリック教会において現在まで続いているように思われます。
天使の働きは、このような霊的環境の落差を埋めるためのものではなかったでしょうか。その証拠に、聖母が出現される1週間ほど前には、顕示されたご聖体を礼拝する無数の天使たちの姿が3度も現われています。聖母が出現されるためには、それだけの天使たちの働きが必要だったのでしょう。
とすれば、たとえ公的なものではなく私的共同体的な内容であっても、天使の働きについて詳しく記すことは必要なことではないかと考え直したのです。
1965年(月日不明) 笹川の姉の死(後に、笹川は守護の天使の姿を亡き姉かと見間違う)。
姉は、胃ガンで死亡。入院中は、笹川が母親とともに専心看護にあたる。姉の夫から頼まれて“神様の話”を聞かせ、まもなく洗礼に導いた。幼い3人の子を残すのが気がかりな姉は、夫とも仲のよい笹川に、自分の主婦の座を継いでほしいと願ったが、笹川は、今までの恵みを感謝するため、神に身を捧げる決心を告白した。姉はすぐ了解し、「天国に行ったら、修道院に行けるよう祈ってほしい」との妹の頼みも聞き入れた。そして、「もし修院へ入れたら、天国へ行ったしるしね」と言い合った。
1969年(月日不明) 笹川は風邪の高熱で倒れ、4日間意識不明の状態になる。
2日目の夜に病油の秘跡を授かる。意識不明のまま、感謝の祈りとして主祷文、天使祝詞、栄誦、使徒信経をラテン語で唱える。もちろんラテン語を学んだことはなかった。
付き添いの母の言では、胸に手を組んだままたえず何か祈っていた。
笹川の夢の記憶〔守護の天使がファティマの祈りを教える〕
「きれいな野原のような所で美しい人に手招きされているのに、ガイコツのようにやせこけた人々にすがりつかれて、そちらへ行けないでいたり、清水を求めて争い、人をおしのけて濁った河に落ちる哀れな人々の姿に胸をいためたりして、そんな人のためにも祈ったりしていました。とくにロザリオの祈りを唱えつづけていました。ところが、そのうち、ふいに、ひとりの見知らぬうるわしい女の方(1973年7月6日に笹川の守護の天使とわかる)がベッドの右側に現れてきて、一緒にロザリオの祈りを唱えて下さったのです。そして一連の終わりに、わたしの知らない祈りを加えられるので、おどろいてあとをついて唱えました。すると、“ロザリオの各連のあとにこの祈り(後に、「ファティマの祈り」とわかる)をつけ加えなさい”と教えられました」。
(1973年5月12日 同年3月16日より進行性難聴で全聾になった笹川が、秋田の聖体奉仕会本部に入会。祈りと犠牲による神への奉仕を志す)。
1973年6月24日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
1973年6月28日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
(笹川の左掌に傷が現われ痛み始める)。
1973年6月29日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
女性の姿(笹川の守護の天使)がロザリオを一緒に祈る。
1973年7月5日 守護の天使がロザリオを一緒に祈る。
1973年7月6日 守護の天使が笹川を聖堂へ導き聖母へ取り次ぐ〔聖母の最初のお告げ〕。
1973年7月27日 守護の天使が、聖母像の出血と笹川の掌の傷がこの日で終わることを告げ、聖母像の出血現象の意義を説く〔出血現象についての説明〕。
1973年8月3日 守護の天使がロザリオを一緒に祈る。そのあと、守護の天使が聖母へ取り次ぐ〔聖母の第2のお告げ〕。
同日真夜中頃 守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
守護の天使の「起きなさい、起きなさい」という声に、呼び覚まされる。飛び起きてドアを開くと、異様に焦げ臭い。階下の台所へ行くと、他のシスターが消し忘れたヤカンが火の玉のように真っ赤に燃えさかっていた。
1973年8月4日 守護の天使が、笹川をサタンの攻撃から守る。
聖堂へ入ろうとする笹川の肩につかみかかった黒い影(サタン)に身動きがとれず、守護の天使に助けを求めると、守護の天使が現れて先立たれる。何事もなかったように笹川は聖務につくことができた(同様の攻撃がこのあと2回ほどあった)。
1973年9月29日 守護の天使が聖母像の汗を拭くように促す〔発汗現象についての説明〕。
1973年10月2日 伊藤司教とシスターそれぞれの守護の天使が姿を現す。
ミサに参加しているシスターそれぞれの守護の天使が礼拝している姿。聖体拝領のときにシスターそれぞれの右肩に付き添う守護の天使の姿。司教とシスター7人に天使の数が8位。
1973年10月7日 守護の天使〔芳香現象についての説明〕。
1973年10月13日 〔聖母の第3のお告げ〕守護の天使が笹川の質問についてたしなめる。
笹川が「私の長上とはどなたでしょうか」と聖母に念のために尋ねると、守護の天使が「このような機会に伺うのなら、もう少し大事なことがあるでしょうに」とたしなめるのを感じた。
1974年1月31日 守護の天使が夢の中で笹川を助けて、屋根を支える。
笹川は、前日の大雪で屋根がつぶれそうになっている夢を三度も見る。夢の中で、天井を懸命に支えていたが、腕が堪えられなくなるたびに守護の天使が現れ、代わって支えてくださる。目が覚めると、肩はこり胸は苦しく汗びっしょりになっていた。念のために責任者が外に出て見てみると、夢は現実の危険だった。すでにかなりの垂木が折れて、母屋の屋根の大部分が窓がまちの上10センチ位まで落ち込んでいた。慌てて屋根の雪を落とすために、下の村へ救援を頼む。春になってから屋根を修復した大工は、被害に驚き、垂木が42本も折れていると告げた。
1974年2月25日 守護の天使が他のシスターの祈りを助けるようアドバイス。
守護の天使「いま悩み苦しんでいるひとりの姉妹がいます。あなたはこの姉妹の身につけている物を一つ借りてきて、初金曜日まで身代わりになってあげなさい。その日になったら、その人への返事をしましょう」。
笹川はすぐ、それと思われるシスターのところへ行き、首のメダイを奪うように取って聖堂の祈りのグループへ戻る。驚いたことに、笹川はそのあと全然お祈りが出来なくなる。「気が散って祈れない」とは、こういうことだったのかと悟らされる。メダイを笹川に貸したシスターは、こんなにお祈りが出来るなんてと、明るい笑顔。笹川は、四旬節中でもあり必死になって祈りと断食を続ける。
初金曜日朝、例のシスターは笹川が身代わりになってくれていたことを悟り、あかるい笑顔で礼を言う。夜、そのシスターと二人で祈っていると守護の天使が現れ、笹川に「信じなさい、委せなさい、祈りなさい」と忠告を伝える。隣にいたシスターがそれを聞いて復唱すると守護の天使の姿は消えた。笹川がメダイを返すと、彼女はすぐに首にかけ、聖母像の前へすすみでてひれ伏して「マリア様、私は信じます。委せます。祈ります」と祈った。
(1974年3月10日、安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住される)。
1974年5月1日 守護の天使が、安田神父のマリア庭園造園計画を励ます。
守護の天使「あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい」。
(その後、聖母像の製作者若狭氏による、同じ桂材で対になるように彫られたヨゼフ像が、ある奇特な方から寄贈され、聖堂に安置された)。
1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告する。
(笹川の耳は、前述のように1973年3月16日から全聾の状態だったが、そのことが妙高教会の聖堂守り兼カテキスタの奉仕生活をやめて聖体奉仕会へ入会するきっかけになった)。
守護の天使「あなたの耳は八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい。そしてあなたを導くお方にこのことを話しなさい。あなたはその日が来るまで、他に話してはなりません」。
1974年6月10日 迫害の夢の中で、守護の天使が笹川の汗を拭く。隣室の蛇を教える。
〔迫害を受ける夢〕
笹川「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。
私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭(かしら)のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。
『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神とみとめないのか。神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』
そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。
『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』
すると相手は
『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』
と念を押すので、
『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
と答えると、蛇が一だんと強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。怖ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。助けを求めて見まわすと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついてるから、がんばってね』とそれぞれの眼(まな)ざしが言うだけです。日ごろ頼りにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。
もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の御名(みな)によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責めたてていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。
ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。
そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした」。
安田神父の解釈「これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う」。
〔守護の天使が、隣りの部屋に蛇がいることを知らせる〕
笹川「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」。
1974年6月28日 守護の天使が、会の指導司祭として安田神父の任命を要請。
伊藤司教はこの要請を受け入れ、非公式に任命。
1974年8月8日 三位の天使が、安田神父の病気の治癒を予告。
安田神父はミサの福音朗読の直前に大腸破裂により入院。危険な手術に臨む。
笹川が祈っていると、突然、手術室の様子が同時進行のヴィジョンとして現われ、手をつけかねている医者たちを安田神父の兄や甥(両名とも医師)が説得している緊迫したやりとりを聞く。場面が変わって、笹川は、手術台とその上の安田神父の周囲に三位の天使が出現して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美し、礼拝している姿を見る。
笹川は、シスターたちに「神父様の病気は大腸破裂で、大変だとお医者様たちが言っています。けれども、天使たちが祈っているのを見たので、きっと治るでしょう」と告げた。
(安田神父が倒れたことにより、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性がなくなった)。
1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告する。
守護の天使「今朝の食卓で、夢(1974年6月10日に笹川が見た迫害の夢)のことが話題になったでしょう。心配することはない。今日からでも明日からでも、あなたの好きな“九日間の祈”をつづけなさい。九日間の祈を3回つづけている間に、御聖体のうちにまことにまします主のみ前で、礼拝中のあなたの耳が開けて、音が聞こえ治るでしょう。まっ先に聞こえてくるのは、あなたがたが、いつも捧げているアヴェ・マリアの歌声ですよ。その次に、主を礼拝する鈴の音が聞こえるでしょう。
礼拝が終わったら、あなたは落ち着いて、あなた方を導いてくださるお方に、感謝の賛歌を願いなさい。そこで皆は、あなたの耳が聞こえるようになったことを知るでしょう。この時、あなたの体も癒され、主は讃えられます。
これを知ったあなたの長上は勇気に満ち、心も晴れて証しをするでしょう。しかし、皆がよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって、より信頼して祈りなさい。きっと守られるでしょう」。
「あなたの耳が聞こえるのは、しばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず、また聞こえなくなるでしょう。聖主がそれを捧げものとして望んでおられますから……。
このことを、あなたを導く方に伝えなさい」。
1974年10月13日 守護の天使が予告したとおりに、笹川の耳が一時的に癒される。
安田神父「(夕方5時から)聖体顕示を行い、香を焚くとき、私の胸に“今日は何かありそうだ”とかすかにひびく思いがあった。償いの祈りののち、席にもどってロザリオを共唱する。つづいてアヴェ・マリアの歌……。その終わりごろ、姉妹笹川が畳にひれ伏して、泣いているらしい様子が目にとまった。念祷、聖務の晩の祈りを終え、いよいよ聖体の祝福の時になった。姉妹のひとりの手によって鈴が高らかに振り鳴らされる。私は顕示台をかかげて十字の印を描きながら『主よ、思召しのままにお恵みを与えたまえ』と祈った。
次いで顕示台にむかってひざまずき『天主は賛美せられさせ給え……』と、賛美の連祷の先唱をはじめた。その祈りが終わり、聖歌の指定をしようとしたとたん、姉妹笹川が背後から『神父様、聖歌12番のテ・デウムをお願いいたします』と声をかけてきた。私はすぐふり返り『耳が聞こえるようになりましたか』と聞くと、『はい、今そのお恵みをいただきました』と私の唇の動きを見ることなく答える。
そこで列席の人々(日曜の式なので、外部からの参列者もあった)に向かい『皆さん、5月と9月の2回にわたって天使から姉妹笹川の耳が聞こえるようになるお約束がありまして、そのことが今日実現しました。今これからそのお恵みを感謝してテ・デウム(神への賛歌)をうたいましょう』と告げた。
人々は大そう驚いたようで、それこそ自分の耳を疑う態(てい)であったが、賛歌はすすり泣く声もまじえての感動的なものとなった」。
「司教の指示に従い、私は翌日彼女を伴って、日赤と秋田市立の二つの病院へ行き、耳の検査を求めた。そして両病院から、診察の結果、聴力正常との証明書をもらった」。
(この笹川の耳の治癒は、天使の予告どおり5ヶ月間だけのことで、翌年1975年2月の灰の水曜日あたりから頭痛と耳鳴りが烈しくなり、3月10日には再び全聾の状態に戻った)。
1975年1月4日 守護の天使〔落涙現象についての説明1〕
1975年3月6日 落涙現象の2度目の日 この日から笹川の頭痛が烈しくなる。
1975年3月7日(初金) 守護の天使が笹川を慰める。
守護の天使「(笹川の頭痛と難聴について)御父のお望みの時まで、耐え忍びましょう」。
安田神父「私はその日のうちに姉妹笹川を伴って、市立秋田総合病院と日赤病院の耳鼻科を訪れ、診断を乞うた。この時の市立秋田総合病院の診断書には『両側突発性難聴の疑。初診、昭和五十年三月七日。比較的安静を要し、当分の間加療を要する。(医師田中弘)』とあり、日赤病院の診断証明は次のごとくである。『病名、両感音難聴。付記、高度難聴で計器最大出力でも測定できません。したがって良くなっているかどうかの判定は不能。今後の改善はあまり期待できません。上記のとおり診断証明します。(日付、医師名)』」。
1976年5月1日 守護の天使〔落涙現象についての説明2〕
1976年6月13日 守護の天使が、超能力者と決めつけられた笹川を慰める。
東京の調査委員会のリーダー、エバンジェリスタ氏に笹川は個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。氏はすでに自分の意見として、各方面に「姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である」などと言明していた。
笹川は、氏から超能力の持ち主と言われて驚く。
笹川「それから11時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、“恐れなくともよい”といつものお声を耳にしたとたん、何ともいえぬ心の安らぎを感じました」。
このあと、調査委員会の結論が出るのを待っているかのように、聖母像からの落涙現象は2年2ヵ月の間ピタッと止まっていましたが、エバンジェリスタ氏の超能力説による否定的な結論が出されると、再び落涙現象は始まり、「もはや新たに涙が流れることはない」、「笹川が聖母像の50メートル範囲にいる限り、彼女は超能力によって、御像から涙を流させることができるが、50メートル以上はなれた所からでは、その力を出すことができない」、「笹川がみずからの血と涙(どちらもB型と断定)を“転写”したもの」といった説を、ことごとく覆すようなかたちで落涙現象は続いていくのです。
このシスター笹川超能力者説は、いまだに日本のカトリック教会内で影響力を持っているように思われます。
前記参考文献『聖母像から血と涙』の中で、志村辰弥は超能力説を否定して、「それは、霊界からの干渉と見るべきである。(略)聖書も人毎に守護霊(守護の天使)があることを認め、あるいはトビアの話のように人を指導する霊があること」を教えていると述べられています。
編者も、この項の初めに述べたように、文化的素地と霊的環境の落差を前提として、この志村師の説に賛同する者であります。
さらに師は、その場合、背後霊(守護霊もその中に含まれる)が善霊か悪霊かが問題になってくると述べ、以下のように記されています。
志村辰弥「シスター笹川による超能力現象(編者:私は、超能力という言葉自体が人間中心主義への単なるレッテルのはり替えで無意味だと思います)が背後霊による干渉とすれば、天使の出現や聖母マリアのみ声が現実のものとして易しく受け取れる。ただし、それが悪魔(悪霊)の働きであるかも知れない」。この点については、
1.シスター笹川が受けたメッセージには信仰を誤らせるような点は全くない。
2.祈りや犠牲のすすめによって反って信仰生活の高揚をもたらしている。
3.聖母像を訪れる多くの人が精神的、肉体的(病気の治癒)に沢山の恵みを受けている。
4.事件の発生以来満8年を経過するが、その間、悪魔の働きと見られるような事は全くない。
これらのことによって、反駁されるとし、「この事件は天使及び聖母マリアの直接交渉に外ならないことが明らかである。なぜなら善霊又は天使が聖母マリアの名をかたって、そのようなことをすることは考えられないからである」と、結論されています。
1981年9月15日聖母のお悲しみの記念日 101回目の最後の落涙現象
1981年9月28日 守護の天使〔落涙現象についての説明3〕
1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告する。
守護の天使「耳の不自由は苦しいでしょう。あなたに約束がありました癒しの時が近づきました。童貞にして汚れなきおんやどりの聖なるお方のお取り次ぎによって、前に癒された時とまったく同じように、御聖体のうちにまことにましますお方のみ前で、耳が完全に癒され、いと高きおん者のみ業が成就されます。これからもいろいろと困難や苦しみ、外部からの妨げがあるでしょう。恐れることはありません。忍耐してそれらを捧げるならば、必ず守られます。よく捧げて祈ってください。このことを、あなたを導いてくださるお方に告げて、お導きと祈りをいただきなさい」。
1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告する。
守護の天使「あなたの耳は、汚れなき聖母のみ心に捧げられたこの月のうちに、完全に癒されるでしょう。前と同じように、御聖体のうちにまことにましますお方によって癒されます。このしるしによって信ずる者は、多くの恵みにあずかるでしょう。反対する者もあるでしょうが、少しも恐れることはありません」。
笹川は、二重人格的作用と言われたことが気になっていて、守護の天使に尋ねる。
「あなた様は、私自身が私に語っているものでしょうか」。
守護の天使は頭を振り、「そうではありません。私はこれまであなたに姿を現して導いてきましたが、これからはもう姿を見せることはありません」と答えられた。
そして彼女を離れて、この世ならぬ美しさの、まさに天上的な輝きの天使群に吸い込まれて行かれた。
1982年5月30日聖霊降臨の祭日 守護の天使に予告されたとおりに、笹川の耳が完治。
安田神父「この日はめずらしく訪問客が少なく、ただかねて“お涙”の鑑定の際お世話になった奥原英二教授夫妻だけが、折よく(あとからみればまさに最適の立会人という感じで)礼拝に参加された。
1時間あまりの礼拝の式がすすみ、私が聖体顕示台をかかげて一同に祝福を与え、鈴が打ち振られた瞬間、前回同様、その音を合図に姉妹笹川の耳は開けたのである。私が例のごとく聖体讃美の祈りを唱え終えたとき、彼女は背後から呼びかけ、『いまお恵みをいただきました。感謝のためにマグニフィカトをおねがいいたします』と言った。(そうか!)感動をうなずきだけに抑えた私は、御聖体を聖櫃におさめてから一同に向かい、天使の二度の予告と、いま姉妹笹川の耳がその通りに癒されたことを語った。次いで指示した賛歌は、言いつくせぬ感謝と涙にあふれる感激のうちに、高らかにうたわれたのであった。
翌日姉妹笹川は、かねてお世話になっている日赤病院の耳鼻科に診断を受けに行った。細部にわたっての検査の結果、耳は完全に治っていることが証明された。医師は非常に感銘を受けたらしく、看護婦全員と起立して、「おめでとうございます」と深く頭をさげて祝辞を述べた。
6月14日、伊藤司教はみずから病院へ出向き、かの耳鼻科部長・荒井辰彦医師に“これは奇跡的治癒である”との証明を一筆いただきたいと頼んだが、これはことわられた。前の症状を知る者としては奇跡的治癒としか考えられないが、現在の医学界では診断書に“奇跡”の文字を使用するわけにはいかないから、ということであった」。
1990年4月14日 守護の天使の声が、指導司祭として再度、安田神父の任命を要請。
この要請も伊藤司教に伝えられ、司教は後任の教区長へ伝えられたと思われるが、安田神父は1987年に聖体奉仕会への定住が禁じられて静岡県へ転住、そのまま任命されることなく現在に至っている。
さて、天使の働きについてほとんど全部を列挙してきましたが、その八面六臂の活躍ぶりに驚くのは編者だけでしょうか。笹川個人のみならず所属する共同体のためにも、聖母への取り次ぎや霊的現象の解説から、霊的成長のための指導、励まし。サタンの攻撃から守り、火事の危険を知らせ、大雪で生き埋めになるところを助け、耳の治癒のために恵みの取りつぎまでしているのです。
こんなに心強い味方がいればどんなにありがたいことだろうと、編者などはうらやましく思います。しかし、それは裏返してみれば、聖母出現とそれが意味する神からの使命がそれだけ大変なことだったということではないでしょうか。スリル満点の大活劇は、映画などでみるときには楽しく面白いし、そんな目にあってみたらワクワクするだろうと憧れるかもしれませんが、現実に事件に巻き込まれている当事者にしてみれば、冷や汗、あぶら汗の連続で、とてもストレスで体がもたないでしょう。編者も、落ちこぼれのような神秘体験を恵まれた者の一人として身にしみるのであります。実際、安田神父は大腸破裂のうきめにあっておられます。このような場合、使命を遂行するためには、どうしても命がけの覚悟が必要になってくるのでしょう。
また、こうして並べてみると、神の摂理が見事なまでに構成された順序によって実現されていくのを見せられる思いがします。聖櫃からの光に始まり、無数の天使、次ぎに一人の守護の天使、聖母への取りつぎによる出現、出血現象、発汗現象、芳香現象、悪臭、落涙現象、守護の天使の別れ、聖体礼拝による耳の奇跡的治癒の恵み。つまり、聖体に始まり、聖体に終わっています。聖体に奉仕するために創られた聖体奉仕会の名にとって、ふさわしい構成ではないでしょうか。
煩雑に思われるかもしれませんが、もう一度、構成要素のみを並べて、その展開を見てみましょう。何度も現れる3という数字は、三位一体等、神の数字として古より知られているところです。
秋田の聖母出現における恵みの展開と発展拡大
1.恵みの前段階(約8年間)。
1965年(月日不明)笹川の姉の死
笹川は姉を洗礼に導き、姉はあの世での祈りを約束。
笹川は姉に、神に身を捧げる決心を告白。
(1965年12月7日 第2ヴァチカン公会議の終結)。
(1966年 伊藤司教が、創立三姉妹と相談し「聖体奉仕会」と命名)。
1969年(月日不明)笹川の守護の天使との最初の出会い。
意識不明のとき、夢の中で天使に「ファティマの祈り」を教わる。
(1969年4月3日 ヴァチカンより、新ミサが公布される)。
(1969年5月29日 ヴァチカンより、「手による聖体拝領」が黙認)。
(1969年 「聖体奉仕会」が宗教法人の認可を受ける。三姉妹初誓願)。
(1970年9月8日 「聖体奉仕会」修道院落成。ウニオピアとして司教認可)。
(1972年5月8日 イタリアのゴッビ神父が、ファティマにて聖母からの呼びかけを聞く)。
(1972年10月13日 ゴッビ神父他2人の神父が、司祭のマリア運動を始める)。
1973年3月16日 笹川が進行性難聴で全聾になる。
1973年5月12日 笹川が聖体奉仕会へ入会。
この時点で、姉との約束が実現(「修院へ入れたら、天国へ行ったしるし」)。
1973年6月 初代指導司祭が湯沢台を離れる。
2.恵みの準備段階(33日間)=影響範囲は笹川個人。
1973年6月12日 聖櫃から光1(3日間続けて3回)。
1973年6月13日 聖櫃から光2。
1973年6月14日 聖櫃から光3。聖体ランプの炎上(主の現存の強調)。
1973年6月24日 聖体から光、無数の天使1(3回)。
1973年6月28日 聖体から光、無数の天使2。
笹川の左掌の傷、出血(償いの出血30日間)。
(この左掌の傷により、笹川はご聖体を口で拝領)。
1973年6月29日(金) 聖体から光、無数の天使3。イエズスの聖心の祝日。
笹川の守護の天使の出現1(3回目に聖母へ取り次ぎ)。
1973年7月5日 笹川の守護の天使の出現2。
3.恵みの展開段階(102日間)=影響範囲は聖体奉仕会内。
1973年7月6日(初金) 笹川の守護の天使の出現3、聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ1〕(お告げは3回)。聖母像の右掌の傷、出血(犠牲の出血22日間?)。
(1973年7月7日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第1メッセージ「私はいつもあなたのそばにいます」)。
1973年7月27日(金) 聖母像と笹川の掌からの出血の終結。
〔1聖母像出血現象の説明〕(現象の説明は3回)。聖母像の傷は残り、笹川の傷は見事に消える。
(1973年7月28日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第8メッセージ「警戒し祈りなさい 私の子である多くの司祭は、福音を裏切り、悪魔的な誤謬であるマルキシズムを支持しています」)。
1973年7月28日 伊藤庄治郎司教から3つの質問(回答はこの日を含めて7日後)。
1973年8月3日(初金) 聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ2〕司教への答えを含む。笹川は捨石になる覚悟を表明。
真夜中頃、守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
1973年8月4日 守護の天使が笹川をサタンから守る(この日を含めて3回)。
(1973年8月 聖体奉仕会の準会員制度が始まる)。
1973年9月29日(土) 聖母像の傷がなくなる。大天使聖ミカエルの祝日。
〔2聖母像発汗現象の説明〕。発汗を拭いた脱脂綿から天国的な芳香(17日間)。
1973年10月2日 聖変化の聖体から光。守護の天使の祝日。
ミサの参加者それぞれの守護の天使8位の出現。
1973年10月7日 芳香現象は15日までと予告。ロザリオの祝日。
〔3聖母像芳香現象の説明〕。小テレジアと大テレジアの記念日に特に強烈に匂う。
1973年10月13日 聖櫃から光、聖母像から芳香。ファティマ太陽の奇跡の日。
〔聖母からのお告げ3〕。
1973年10月15日 恵みの展開段階の終結。大聖テレジアの記念日。
4.恵みの維持段階(約1年間)=影響範囲は聖体奉仕会とその周辺地域。
1973年10月16日 ものすごい悪臭と蛆虫(3日間)。
1974年1月31日 守護の天使が、大雪で生き埋めになる危険から修道会を助ける。
1974年2月25日 守護の天使が、他のシスターへ祈りのアドバイス。
1974年3月10日 安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住。
(聖体奉仕会では、笹川の入会と入れ違いのように司祭が去られ、不在だった)。
1974年5月1日 守護の天使が、マリア庭園造園計画を励ます。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使が、聖ヨゼフへの信心のしるしを表すように要請。
1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告。8月か10月。
1974年5月30日 聖母像の顔色が赤黒く変色。顔の表情も時々に変化。
1974年6月10日 夢の中で守護の天使が笹川の汗を拭く。
〔神学者からの迫害の予言的な夢〕。守護の天使が、隣室の蛇を知らせる。
1974年6月28日 守護の天使が、指導司祭として安田神父の任命を要請。
1974年8月8日 笹川の、安田神父の手術のヴィジョンのなかに3位の天使。
(安田神父が倒れられたので、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性はなくなる)。
1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告。
1974年10月13日 天使の予告どおりの耳の治癒。ファティマ太陽の奇跡の日。
(この予告どおりの一時的な耳の治癒に伊藤司教は勇気付けられ、この一連の出来事について、神学者たちに検討を願うことにふみ切られた)。
5.恵みの新たな展開(約1年半)=影響範囲は日本全国。
1974年11月3日 雑誌「カトリックグラフ」からの取材訪問の申し込み。
1974年12月 雑誌「カトリックグラフ」にトップ記事「秋田に聖母が出現!の噂を追う」。
1975年1月4日(初土) 聖母像からの最初の落涙現象3回。目撃20名。
〔聖母像落涙現象の説明1〕(説明は3回)。このときの涙、保存されていた血、汗で第1回目の検査。
1975年3月6日 聖母像からの4回目の落涙現象。目撃15名。
雑誌「カトリックグラフ」の米田記者来訪、聖母の涙を目撃。
1975年3月7日 笹川は昨日から頭痛に悩み、この日から再び全聾となる。
守護の天使が、再び全聾になった笹川を慰める。
1976年5月1日 聖母像からの5~8回目の落涙現象。目撃50名。
〔聖母像落涙現象の説明2〕。社会の第一線に立つ壮年信者の“安信会”メンバーが目撃。
1976年5月2日 聖母像からの9回目の落涙現象。目撃55名。秋田市内の医師4名を含む。
この2日間の“安信会”メンバーの目撃証言が、「カトリックグラフ」誌に掲載される。
これらの証言は、後に前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』に再録(前項参照)。
1976年5月13日 聖母像からの10回目の落涙現象。目撃35名。
「カトリックグラフ」誌編集長、山内継祐氏夫妻来訪。落涙現象を目撃(詳細は前項参照)。
(「カトリックグラフ」誌がほぼ独占的に報道。幾つかの週刊誌がこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映。逆にカトリック報道機関は意固地に黙殺)。
6.恵みの待機(約2年2ヵ月)=影響範囲は日本全国から近隣の国外へ。
1976年5月17日~24日 超能力説のエバンジェリスタ氏来訪、シスターの黙想指導。
これは1年前から氏に調査を依頼していた伊藤司教の賛同による企画。
安田神父は、三重県鈴鹿市の教会での講演で留守。笹川は、母危篤の報を受け郷里へ帰る。
この間に他のシスターたちは、聖母の恵みへの信念をぐらつかせる。
(伊藤司教は、東京大司教に頼んで調査委員会をつくって調査を始めてもらう。エバンジェリスタ氏はその調査委員会のリーダーとなる)。
この頃、伊藤司教は調査委員会の指示によりカトリック界の広報機関であるカトリック新聞に、“秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する”旨を公示。
1976年6月13日 笹川はエバンジェリスタ氏に個人的に呼び出され、洗脳工作を受ける。
守護の天使が、超能力者と決め付けられた笹川を慰める。
1976年6月14日 笹川はショックで桜町病院へ入院。3週間後、矢立温泉へ療養。
3ヵ月後、聖体奉仕会へ戻ってきても、雰囲気がガラッと変わって針のむしろの心地が続く。
この第一次調査委員会は、2年後の1978年に調査の結果としてその超自然性について否定的結論を出した。
7.恵みの発展段階(約1年間)=影響範囲は日本近隣国からさらに海外へ。
1978年7月26日 聖母像からの11回目の落涙現象。目撃46名。
第一次調査委員会の否定的結論を待ち設けたかのように、再び落涙現象が始まる。
1978年10月11日 聖母像14回目の落涙現象。カリタスシスター2名。笹川は帰郷中。
1978年11月6日 聖母像17回目の落涙現象。メリノール会、聖ヨゼフ会シスターなど。
1978年12月5日 聖母像16回目の落涙現象。目撃16名。ブラジル2名を含む。
1979年1月24日 聖母像23回目の落涙現象。目撃13名。静岡、京都。
1979年3月7日 聖母像25回目の落涙現象。目撃10名。韓国を含む。笹川は外出中。
1979年3月25日 26回目落涙現象。涙夥しく聖母像の台をぬらす。聖霊会シスター等。
1979年4月8日 聖母像30回目の落涙現象。目撃23名。笹川は外出中。
1979年5月6日 聖母像34回目の落涙現象。聖体降福式の間。笹川は入院中。
1979年5月10日 聖母像36回目の落涙現象。目撃17名。韓国シスター3名を含む。
1979年5月26日 聖母像43回目の落涙現象。目撃11名。韓国の呉神父を含む。
1979年5月29日 聖母像46回目の落涙現象。目撃11名。安田神父は留守。
1979年6月2日 聖母像48回目の落涙現象。目撃12名。笹川は外出中。
1979年6月23日 聖母像63回目の落涙現象。目撃は秋田市長はじめ市内招待客多数。
1979年6月26日 聖母像65回目の落涙現象。目撃13名。韓国カルメルシスター。
1979年6月29日 聖母像67回目の落涙現象。笹川ほか外出中。
1979年7月7日 聖母像70回目の落涙現象。目撃11名。笹川は外出中。
1979年7月13日 聖母像76回目の落涙現象。目撃10名。笹川ほか外出中。
1979年7月16日 聖母像79回目の落涙現象。目撃12名。安田神父は留守。
1979年7月24日 聖母像85回目の落涙現象。目撃14名。ケヌエル神父を含む。
1979年7月25日 聖母像87回目の落涙現象。目撃30名。高崎のヨゼフ神父と男女青年。
1979年7月31日 聖母像からの94回目の落涙現象。目撃16名。他会シスター3名を含む。
主なものを挙げたが、来訪者は北海道から沖縄まで日本国内。他に韓国とブラジル。
8.恵みの拡大段階(約2年2ヵ月)=影響範囲は世界各国へ。
1979年12月6日 「カトリックグラフ」の山内氏、テレビ局(東京12チャンネル)のスタッフ4名来訪。夜通し6秒間隔の瞬間写真をとるべくセット。第1回目は失敗。
1979年12月8日 落涙現象を目にしたテレビ局員が予定を1日延ばして再度挑戦。
夜8時ごろからの秒刻みのシャッターが、11時過ぎの落涙現象の撮影に成功。
この落涙現象の映像が、全国的に放映されることになる。無原罪の聖母祭日。
1980年5月 伊藤司教による第二次調査委員会の発足。
1981年1月6日 98回目の落涙現象。庄司神父と黙想参加者。(落涙現象は残り3回)。
1981年5月2日 ロンドン・ヒースロー空港でのハイジャック事件の犯人が、ファティマ第3の秘密の公開を要求。ファティマ第3の秘密は公開されないまま犯人は逮捕される。
1981年5月13日 教皇ヨハネ・パウロ2世狙撃事件。事件はファティマ聖母出現と同時刻に起こり、教皇はかろうじて急所をそれた弾道に聖母マリアの御手の働きを認められ、その銃弾は後にファティマの聖母像の冠に感謝とともに埋め込まれた。
1981年6月24日 メジュゴリエ(旧ユーゴスラビアの村)にて、聖母出現が始まる。
1981年8月4日 韓国のテレジア千さん(植物人間状態)に秋田の聖母として出現1(出現は3回、詳細は前項)。
1981年8月15日 韓国のテレジア千さんに出現2、目を覚まして起き出す。聖母被昇天祭日。
1981年8月22日 99回目の落涙現象。目撃44名。伊藤司教、林神父、ジャック神父ほか。
このときの涙を第2回目の検査のために提出。
1981年9月12日 100回目の落涙現象。目撃13名。カリタスシスター2名ほか。
伊藤司教の委嘱による第二次調査委員会の例会最終日。
伊藤司教の“認める”という意見に、メンバー7人のうち賛成4、反対3。
1981年9月15日 101回目(最後)の落涙現象。目撃65名。聖母のお悲しみの記念日。
1981年9月28日 大きな開かれた聖書のヴィジョン。創世記3章15節。
〔聖母像落涙現象の説明3〕。
9.守護の天使の特別な使命の終結と、笹川の耳の完全な治癒の恵み。
1981年12月9日 韓国のテレジア千さんにレントゲン室にて出現3。脳腫瘍の奇跡的治癒。
1982年3月 伊藤司教が第二次調査委員会の報告書をラッチンガー枢機卿に送る。
1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告。お告げの祝日。
1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使としての特別な使命の終結を告げる。
1982年5月12日 ファティマへ感謝のための巡礼中の教皇ヨハネ・パウロ2世、2度目の暗殺未遂事件。
1982年5月13日 ファティマでの演説で、教皇ヨハネ・パウロ2世は自身のことを「黙示録の証人」と語られる。
1982年5月30日 予告どおりに笹川の耳が完全に治癒、現在に到る。聖霊降臨祭日。
1982年9月21日 ヨゼフ・マリ・ジャック神父が、濱尾文郎司教の要請により論文「口での御聖体拝領に関する弁論」を提出(聖ピオ10世会ほかのサイトを参照のこと)。
1983年4月 韓国ソウルのカトリック教会、103人福者の列聖委員会が秋田の聖母による奇跡的治癒を公認。
1984年3月25日 教皇ヨハネ・パウロ2世が、世界各国の司教に呼びかけて“聖母マリアの汚れなき御心”に全世界と諸国民を奉献。この奉献が聖母の要請を充分満たすものであったかどうかは、種々異論のあるところです。
1984年4月22日 伊藤庄治郎司教が司教書簡により、秋田の聖母像への崇敬を公認。
1984年5月 秋田の聖母の奇跡的治癒に基づく申請書により、韓国の103殉教者が列聖。
いかがでしょうか、その構成の見事さ、展開の無駄のなさ。これがいったい人間ワザと言うことが可能なのでしょうか。荘厳さのみならず壮大ささえ感じるのは編者だけなのでしょうか。
<その祈り>
1969年 笹川が意識不明の夢の中で守護の天使から教わった「ファティマの祈り」。
「ああ、イエズスよ、われらの罪をゆるし給え。われらを、地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂をして、天国に導き給え。アーメン」。
1973年6月29日 守護の天使が一緒に祈った祈り。
「すべての民の御母」の祈り。
「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ、おんみの霊をあまねく全世界につかわし給え。しかして聖霊がすべての民の心に宿り、退廃と凶災と戦争から彼らを守らしめ給え。すべての民のおん母が、われらの擁護者(ようごしゃ)ならんことを。アーメン」。
この祈りを教えられたオランダのアムステルダムの聖母出現は、2002年5月31日ハーレム・アムステルダム教区長のヨゼフ・マリア・プント司教によって公式に認められました。
「聖体奉仕会」の創立三姉妹は会の草創期からこの聖母への信心を持っていて、その御絵が秋田の聖母像のモデルになっています。
1973年7月6日 聖母の最初のお告げのとき、聖母が一緒に祈る。
聖体奉仕会の祈り(伊藤庄治郎司教起草の祈りに「まことに」の一語が加えられる)。
「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心(みこころ)よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心(みこころ)に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉(たてまつ)る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨(みむね)のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。
幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」。
(このブログでは、コメントやトラックバック、メールやメッセージなどを一切受け付けておりませんので、よろしくご了承ください)。
秋田の聖母出現の場合、ルルドやファティマと比較して特徴的なのは、天使の目覚しい働きぶりです。聖母への取りつぎのみならず落涙現象の解説まで引き受けています。当初、ルルドやファティマのときと同じく、公的なテキストのみに注目して他は省略しようと思っていました。しかし、テキストを何度も読み返すうちに、これはひょっとして日本が、カトリック信者が1パーセントに満たない宣教地だからではないかと思い当たりました。霊的な戦いの激しさを垣間見るような思いがしてきたのであります。
ルルドやファティマの場合では、すでにカトリック信仰のための文化的素地が出来上がっていました。従って、出現があっただけで周囲は待っていたように素直に聖母と直感して、先へと進んでいきます。秋田の場合には、天使が「マリア様」とはっきり明言しても、出現を受けた修道女や修道会までもが疑念や不安に揺れ動いたのです。この不安定な霊的状況は、日本のカトリック教会において現在まで続いているように思われます。
天使の働きは、このような霊的環境の落差を埋めるためのものではなかったでしょうか。その証拠に、聖母が出現される1週間ほど前には、顕示されたご聖体を礼拝する無数の天使たちの姿が3度も現われています。聖母が出現されるためには、それだけの天使たちの働きが必要だったのでしょう。
とすれば、たとえ公的なものではなく私的共同体的な内容であっても、天使の働きについて詳しく記すことは必要なことではないかと考え直したのです。
1965年(月日不明) 笹川の姉の死(後に、笹川は守護の天使の姿を亡き姉かと見間違う)。
姉は、胃ガンで死亡。入院中は、笹川が母親とともに専心看護にあたる。姉の夫から頼まれて“神様の話”を聞かせ、まもなく洗礼に導いた。幼い3人の子を残すのが気がかりな姉は、夫とも仲のよい笹川に、自分の主婦の座を継いでほしいと願ったが、笹川は、今までの恵みを感謝するため、神に身を捧げる決心を告白した。姉はすぐ了解し、「天国に行ったら、修道院に行けるよう祈ってほしい」との妹の頼みも聞き入れた。そして、「もし修院へ入れたら、天国へ行ったしるしね」と言い合った。
1969年(月日不明) 笹川は風邪の高熱で倒れ、4日間意識不明の状態になる。
2日目の夜に病油の秘跡を授かる。意識不明のまま、感謝の祈りとして主祷文、天使祝詞、栄誦、使徒信経をラテン語で唱える。もちろんラテン語を学んだことはなかった。
付き添いの母の言では、胸に手を組んだままたえず何か祈っていた。
笹川の夢の記憶〔守護の天使がファティマの祈りを教える〕
「きれいな野原のような所で美しい人に手招きされているのに、ガイコツのようにやせこけた人々にすがりつかれて、そちらへ行けないでいたり、清水を求めて争い、人をおしのけて濁った河に落ちる哀れな人々の姿に胸をいためたりして、そんな人のためにも祈ったりしていました。とくにロザリオの祈りを唱えつづけていました。ところが、そのうち、ふいに、ひとりの見知らぬうるわしい女の方(1973年7月6日に笹川の守護の天使とわかる)がベッドの右側に現れてきて、一緒にロザリオの祈りを唱えて下さったのです。そして一連の終わりに、わたしの知らない祈りを加えられるので、おどろいてあとをついて唱えました。すると、“ロザリオの各連のあとにこの祈り(後に、「ファティマの祈り」とわかる)をつけ加えなさい”と教えられました」。
(1973年5月12日 同年3月16日より進行性難聴で全聾になった笹川が、秋田の聖体奉仕会本部に入会。祈りと犠牲による神への奉仕を志す)。
1973年6月24日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
1973年6月28日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
(笹川の左掌に傷が現われ痛み始める)。
1973年6月29日 顕示された聖体を礼拝する無数の天使。
女性の姿(笹川の守護の天使)がロザリオを一緒に祈る。
1973年7月5日 守護の天使がロザリオを一緒に祈る。
1973年7月6日 守護の天使が笹川を聖堂へ導き聖母へ取り次ぐ〔聖母の最初のお告げ〕。
1973年7月27日 守護の天使が、聖母像の出血と笹川の掌の傷がこの日で終わることを告げ、聖母像の出血現象の意義を説く〔出血現象についての説明〕。
1973年8月3日 守護の天使がロザリオを一緒に祈る。そのあと、守護の天使が聖母へ取り次ぐ〔聖母の第2のお告げ〕。
同日真夜中頃 守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
守護の天使の「起きなさい、起きなさい」という声に、呼び覚まされる。飛び起きてドアを開くと、異様に焦げ臭い。階下の台所へ行くと、他のシスターが消し忘れたヤカンが火の玉のように真っ赤に燃えさかっていた。
1973年8月4日 守護の天使が、笹川をサタンの攻撃から守る。
聖堂へ入ろうとする笹川の肩につかみかかった黒い影(サタン)に身動きがとれず、守護の天使に助けを求めると、守護の天使が現れて先立たれる。何事もなかったように笹川は聖務につくことができた(同様の攻撃がこのあと2回ほどあった)。
1973年9月29日 守護の天使が聖母像の汗を拭くように促す〔発汗現象についての説明〕。
1973年10月2日 伊藤司教とシスターそれぞれの守護の天使が姿を現す。
ミサに参加しているシスターそれぞれの守護の天使が礼拝している姿。聖体拝領のときにシスターそれぞれの右肩に付き添う守護の天使の姿。司教とシスター7人に天使の数が8位。
1973年10月7日 守護の天使〔芳香現象についての説明〕。
1973年10月13日 〔聖母の第3のお告げ〕守護の天使が笹川の質問についてたしなめる。
笹川が「私の長上とはどなたでしょうか」と聖母に念のために尋ねると、守護の天使が「このような機会に伺うのなら、もう少し大事なことがあるでしょうに」とたしなめるのを感じた。
1974年1月31日 守護の天使が夢の中で笹川を助けて、屋根を支える。
笹川は、前日の大雪で屋根がつぶれそうになっている夢を三度も見る。夢の中で、天井を懸命に支えていたが、腕が堪えられなくなるたびに守護の天使が現れ、代わって支えてくださる。目が覚めると、肩はこり胸は苦しく汗びっしょりになっていた。念のために責任者が外に出て見てみると、夢は現実の危険だった。すでにかなりの垂木が折れて、母屋の屋根の大部分が窓がまちの上10センチ位まで落ち込んでいた。慌てて屋根の雪を落とすために、下の村へ救援を頼む。春になってから屋根を修復した大工は、被害に驚き、垂木が42本も折れていると告げた。
1974年2月25日 守護の天使が他のシスターの祈りを助けるようアドバイス。
守護の天使「いま悩み苦しんでいるひとりの姉妹がいます。あなたはこの姉妹の身につけている物を一つ借りてきて、初金曜日まで身代わりになってあげなさい。その日になったら、その人への返事をしましょう」。
笹川はすぐ、それと思われるシスターのところへ行き、首のメダイを奪うように取って聖堂の祈りのグループへ戻る。驚いたことに、笹川はそのあと全然お祈りが出来なくなる。「気が散って祈れない」とは、こういうことだったのかと悟らされる。メダイを笹川に貸したシスターは、こんなにお祈りが出来るなんてと、明るい笑顔。笹川は、四旬節中でもあり必死になって祈りと断食を続ける。
初金曜日朝、例のシスターは笹川が身代わりになってくれていたことを悟り、あかるい笑顔で礼を言う。夜、そのシスターと二人で祈っていると守護の天使が現れ、笹川に「信じなさい、委せなさい、祈りなさい」と忠告を伝える。隣にいたシスターがそれを聞いて復唱すると守護の天使の姿は消えた。笹川がメダイを返すと、彼女はすぐに首にかけ、聖母像の前へすすみでてひれ伏して「マリア様、私は信じます。委せます。祈ります」と祈った。
(1974年3月10日、安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住される)。
1974年5月1日 守護の天使が、安田神父のマリア庭園造園計画を励ます。
守護の天使「あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい」。
(その後、聖母像の製作者若狭氏による、同じ桂材で対になるように彫られたヨゼフ像が、ある奇特な方から寄贈され、聖堂に安置された)。
1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告する。
(笹川の耳は、前述のように1973年3月16日から全聾の状態だったが、そのことが妙高教会の聖堂守り兼カテキスタの奉仕生活をやめて聖体奉仕会へ入会するきっかけになった)。
守護の天使「あなたの耳は八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい。そしてあなたを導くお方にこのことを話しなさい。あなたはその日が来るまで、他に話してはなりません」。
1974年6月10日 迫害の夢の中で、守護の天使が笹川の汗を拭く。隣室の蛇を教える。
〔迫害を受ける夢〕
笹川「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。
私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭(かしら)のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。
『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神とみとめないのか。神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』
そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。
『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』
すると相手は
『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』
と念を押すので、
『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
と答えると、蛇が一だんと強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。怖ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。助けを求めて見まわすと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついてるから、がんばってね』とそれぞれの眼(まな)ざしが言うだけです。日ごろ頼りにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。
もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の御名(みな)によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責めたてていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。
ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。
そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした」。
安田神父の解釈「これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う」。
〔守護の天使が、隣りの部屋に蛇がいることを知らせる〕
笹川「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」。
1974年6月28日 守護の天使が、会の指導司祭として安田神父の任命を要請。
伊藤司教はこの要請を受け入れ、非公式に任命。
1974年8月8日 三位の天使が、安田神父の病気の治癒を予告。
安田神父はミサの福音朗読の直前に大腸破裂により入院。危険な手術に臨む。
笹川が祈っていると、突然、手術室の様子が同時進行のヴィジョンとして現われ、手をつけかねている医者たちを安田神父の兄や甥(両名とも医師)が説得している緊迫したやりとりを聞く。場面が変わって、笹川は、手術台とその上の安田神父の周囲に三位の天使が出現して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美し、礼拝している姿を見る。
笹川は、シスターたちに「神父様の病気は大腸破裂で、大変だとお医者様たちが言っています。けれども、天使たちが祈っているのを見たので、きっと治るでしょう」と告げた。
(安田神父が倒れたことにより、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性がなくなった)。
1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告する。
守護の天使「今朝の食卓で、夢(1974年6月10日に笹川が見た迫害の夢)のことが話題になったでしょう。心配することはない。今日からでも明日からでも、あなたの好きな“九日間の祈”をつづけなさい。九日間の祈を3回つづけている間に、御聖体のうちにまことにまします主のみ前で、礼拝中のあなたの耳が開けて、音が聞こえ治るでしょう。まっ先に聞こえてくるのは、あなたがたが、いつも捧げているアヴェ・マリアの歌声ですよ。その次に、主を礼拝する鈴の音が聞こえるでしょう。
礼拝が終わったら、あなたは落ち着いて、あなた方を導いてくださるお方に、感謝の賛歌を願いなさい。そこで皆は、あなたの耳が聞こえるようになったことを知るでしょう。この時、あなたの体も癒され、主は讃えられます。
これを知ったあなたの長上は勇気に満ち、心も晴れて証しをするでしょう。しかし、皆がよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって、より信頼して祈りなさい。きっと守られるでしょう」。
「あなたの耳が聞こえるのは、しばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず、また聞こえなくなるでしょう。聖主がそれを捧げものとして望んでおられますから……。
このことを、あなたを導く方に伝えなさい」。
1974年10月13日 守護の天使が予告したとおりに、笹川の耳が一時的に癒される。
安田神父「(夕方5時から)聖体顕示を行い、香を焚くとき、私の胸に“今日は何かありそうだ”とかすかにひびく思いがあった。償いの祈りののち、席にもどってロザリオを共唱する。つづいてアヴェ・マリアの歌……。その終わりごろ、姉妹笹川が畳にひれ伏して、泣いているらしい様子が目にとまった。念祷、聖務の晩の祈りを終え、いよいよ聖体の祝福の時になった。姉妹のひとりの手によって鈴が高らかに振り鳴らされる。私は顕示台をかかげて十字の印を描きながら『主よ、思召しのままにお恵みを与えたまえ』と祈った。
次いで顕示台にむかってひざまずき『天主は賛美せられさせ給え……』と、賛美の連祷の先唱をはじめた。その祈りが終わり、聖歌の指定をしようとしたとたん、姉妹笹川が背後から『神父様、聖歌12番のテ・デウムをお願いいたします』と声をかけてきた。私はすぐふり返り『耳が聞こえるようになりましたか』と聞くと、『はい、今そのお恵みをいただきました』と私の唇の動きを見ることなく答える。
そこで列席の人々(日曜の式なので、外部からの参列者もあった)に向かい『皆さん、5月と9月の2回にわたって天使から姉妹笹川の耳が聞こえるようになるお約束がありまして、そのことが今日実現しました。今これからそのお恵みを感謝してテ・デウム(神への賛歌)をうたいましょう』と告げた。
人々は大そう驚いたようで、それこそ自分の耳を疑う態(てい)であったが、賛歌はすすり泣く声もまじえての感動的なものとなった」。
「司教の指示に従い、私は翌日彼女を伴って、日赤と秋田市立の二つの病院へ行き、耳の検査を求めた。そして両病院から、診察の結果、聴力正常との証明書をもらった」。
(この笹川の耳の治癒は、天使の予告どおり5ヶ月間だけのことで、翌年1975年2月の灰の水曜日あたりから頭痛と耳鳴りが烈しくなり、3月10日には再び全聾の状態に戻った)。
1975年1月4日 守護の天使〔落涙現象についての説明1〕
1975年3月6日 落涙現象の2度目の日 この日から笹川の頭痛が烈しくなる。
1975年3月7日(初金) 守護の天使が笹川を慰める。
守護の天使「(笹川の頭痛と難聴について)御父のお望みの時まで、耐え忍びましょう」。
安田神父「私はその日のうちに姉妹笹川を伴って、市立秋田総合病院と日赤病院の耳鼻科を訪れ、診断を乞うた。この時の市立秋田総合病院の診断書には『両側突発性難聴の疑。初診、昭和五十年三月七日。比較的安静を要し、当分の間加療を要する。(医師田中弘)』とあり、日赤病院の診断証明は次のごとくである。『病名、両感音難聴。付記、高度難聴で計器最大出力でも測定できません。したがって良くなっているかどうかの判定は不能。今後の改善はあまり期待できません。上記のとおり診断証明します。(日付、医師名)』」。
1976年5月1日 守護の天使〔落涙現象についての説明2〕
1976年6月13日 守護の天使が、超能力者と決めつけられた笹川を慰める。
東京の調査委員会のリーダー、エバンジェリスタ氏に笹川は個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。氏はすでに自分の意見として、各方面に「姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である」などと言明していた。
笹川は、氏から超能力の持ち主と言われて驚く。
笹川「それから11時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、“恐れなくともよい”といつものお声を耳にしたとたん、何ともいえぬ心の安らぎを感じました」。
このあと、調査委員会の結論が出るのを待っているかのように、聖母像からの落涙現象は2年2ヵ月の間ピタッと止まっていましたが、エバンジェリスタ氏の超能力説による否定的な結論が出されると、再び落涙現象は始まり、「もはや新たに涙が流れることはない」、「笹川が聖母像の50メートル範囲にいる限り、彼女は超能力によって、御像から涙を流させることができるが、50メートル以上はなれた所からでは、その力を出すことができない」、「笹川がみずからの血と涙(どちらもB型と断定)を“転写”したもの」といった説を、ことごとく覆すようなかたちで落涙現象は続いていくのです。
このシスター笹川超能力者説は、いまだに日本のカトリック教会内で影響力を持っているように思われます。
前記参考文献『聖母像から血と涙』の中で、志村辰弥は超能力説を否定して、「それは、霊界からの干渉と見るべきである。(略)聖書も人毎に守護霊(守護の天使)があることを認め、あるいはトビアの話のように人を指導する霊があること」を教えていると述べられています。
編者も、この項の初めに述べたように、文化的素地と霊的環境の落差を前提として、この志村師の説に賛同する者であります。
さらに師は、その場合、背後霊(守護霊もその中に含まれる)が善霊か悪霊かが問題になってくると述べ、以下のように記されています。
志村辰弥「シスター笹川による超能力現象(編者:私は、超能力という言葉自体が人間中心主義への単なるレッテルのはり替えで無意味だと思います)が背後霊による干渉とすれば、天使の出現や聖母マリアのみ声が現実のものとして易しく受け取れる。ただし、それが悪魔(悪霊)の働きであるかも知れない」。この点については、
1.シスター笹川が受けたメッセージには信仰を誤らせるような点は全くない。
2.祈りや犠牲のすすめによって反って信仰生活の高揚をもたらしている。
3.聖母像を訪れる多くの人が精神的、肉体的(病気の治癒)に沢山の恵みを受けている。
4.事件の発生以来満8年を経過するが、その間、悪魔の働きと見られるような事は全くない。
これらのことによって、反駁されるとし、「この事件は天使及び聖母マリアの直接交渉に外ならないことが明らかである。なぜなら善霊又は天使が聖母マリアの名をかたって、そのようなことをすることは考えられないからである」と、結論されています。
1981年9月15日聖母のお悲しみの記念日 101回目の最後の落涙現象
1981年9月28日 守護の天使〔落涙現象についての説明3〕
1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告する。
守護の天使「耳の不自由は苦しいでしょう。あなたに約束がありました癒しの時が近づきました。童貞にして汚れなきおんやどりの聖なるお方のお取り次ぎによって、前に癒された時とまったく同じように、御聖体のうちにまことにましますお方のみ前で、耳が完全に癒され、いと高きおん者のみ業が成就されます。これからもいろいろと困難や苦しみ、外部からの妨げがあるでしょう。恐れることはありません。忍耐してそれらを捧げるならば、必ず守られます。よく捧げて祈ってください。このことを、あなたを導いてくださるお方に告げて、お導きと祈りをいただきなさい」。
1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告する。
守護の天使「あなたの耳は、汚れなき聖母のみ心に捧げられたこの月のうちに、完全に癒されるでしょう。前と同じように、御聖体のうちにまことにましますお方によって癒されます。このしるしによって信ずる者は、多くの恵みにあずかるでしょう。反対する者もあるでしょうが、少しも恐れることはありません」。
笹川は、二重人格的作用と言われたことが気になっていて、守護の天使に尋ねる。
「あなた様は、私自身が私に語っているものでしょうか」。
守護の天使は頭を振り、「そうではありません。私はこれまであなたに姿を現して導いてきましたが、これからはもう姿を見せることはありません」と答えられた。
そして彼女を離れて、この世ならぬ美しさの、まさに天上的な輝きの天使群に吸い込まれて行かれた。
1982年5月30日聖霊降臨の祭日 守護の天使に予告されたとおりに、笹川の耳が完治。
安田神父「この日はめずらしく訪問客が少なく、ただかねて“お涙”の鑑定の際お世話になった奥原英二教授夫妻だけが、折よく(あとからみればまさに最適の立会人という感じで)礼拝に参加された。
1時間あまりの礼拝の式がすすみ、私が聖体顕示台をかかげて一同に祝福を与え、鈴が打ち振られた瞬間、前回同様、その音を合図に姉妹笹川の耳は開けたのである。私が例のごとく聖体讃美の祈りを唱え終えたとき、彼女は背後から呼びかけ、『いまお恵みをいただきました。感謝のためにマグニフィカトをおねがいいたします』と言った。(そうか!)感動をうなずきだけに抑えた私は、御聖体を聖櫃におさめてから一同に向かい、天使の二度の予告と、いま姉妹笹川の耳がその通りに癒されたことを語った。次いで指示した賛歌は、言いつくせぬ感謝と涙にあふれる感激のうちに、高らかにうたわれたのであった。
翌日姉妹笹川は、かねてお世話になっている日赤病院の耳鼻科に診断を受けに行った。細部にわたっての検査の結果、耳は完全に治っていることが証明された。医師は非常に感銘を受けたらしく、看護婦全員と起立して、「おめでとうございます」と深く頭をさげて祝辞を述べた。
6月14日、伊藤司教はみずから病院へ出向き、かの耳鼻科部長・荒井辰彦医師に“これは奇跡的治癒である”との証明を一筆いただきたいと頼んだが、これはことわられた。前の症状を知る者としては奇跡的治癒としか考えられないが、現在の医学界では診断書に“奇跡”の文字を使用するわけにはいかないから、ということであった」。
1990年4月14日 守護の天使の声が、指導司祭として再度、安田神父の任命を要請。
この要請も伊藤司教に伝えられ、司教は後任の教区長へ伝えられたと思われるが、安田神父は1987年に聖体奉仕会への定住が禁じられて静岡県へ転住、そのまま任命されることなく現在に至っている。
さて、天使の働きについてほとんど全部を列挙してきましたが、その八面六臂の活躍ぶりに驚くのは編者だけでしょうか。笹川個人のみならず所属する共同体のためにも、聖母への取り次ぎや霊的現象の解説から、霊的成長のための指導、励まし。サタンの攻撃から守り、火事の危険を知らせ、大雪で生き埋めになるところを助け、耳の治癒のために恵みの取りつぎまでしているのです。
こんなに心強い味方がいればどんなにありがたいことだろうと、編者などはうらやましく思います。しかし、それは裏返してみれば、聖母出現とそれが意味する神からの使命がそれだけ大変なことだったということではないでしょうか。スリル満点の大活劇は、映画などでみるときには楽しく面白いし、そんな目にあってみたらワクワクするだろうと憧れるかもしれませんが、現実に事件に巻き込まれている当事者にしてみれば、冷や汗、あぶら汗の連続で、とてもストレスで体がもたないでしょう。編者も、落ちこぼれのような神秘体験を恵まれた者の一人として身にしみるのであります。実際、安田神父は大腸破裂のうきめにあっておられます。このような場合、使命を遂行するためには、どうしても命がけの覚悟が必要になってくるのでしょう。
また、こうして並べてみると、神の摂理が見事なまでに構成された順序によって実現されていくのを見せられる思いがします。聖櫃からの光に始まり、無数の天使、次ぎに一人の守護の天使、聖母への取りつぎによる出現、出血現象、発汗現象、芳香現象、悪臭、落涙現象、守護の天使の別れ、聖体礼拝による耳の奇跡的治癒の恵み。つまり、聖体に始まり、聖体に終わっています。聖体に奉仕するために創られた聖体奉仕会の名にとって、ふさわしい構成ではないでしょうか。
煩雑に思われるかもしれませんが、もう一度、構成要素のみを並べて、その展開を見てみましょう。何度も現れる3という数字は、三位一体等、神の数字として古より知られているところです。
秋田の聖母出現における恵みの展開と発展拡大
1.恵みの前段階(約8年間)。
1965年(月日不明)笹川の姉の死
笹川は姉を洗礼に導き、姉はあの世での祈りを約束。
笹川は姉に、神に身を捧げる決心を告白。
(1965年12月7日 第2ヴァチカン公会議の終結)。
(1966年 伊藤司教が、創立三姉妹と相談し「聖体奉仕会」と命名)。
1969年(月日不明)笹川の守護の天使との最初の出会い。
意識不明のとき、夢の中で天使に「ファティマの祈り」を教わる。
(1969年4月3日 ヴァチカンより、新ミサが公布される)。
(1969年5月29日 ヴァチカンより、「手による聖体拝領」が黙認)。
(1969年 「聖体奉仕会」が宗教法人の認可を受ける。三姉妹初誓願)。
(1970年9月8日 「聖体奉仕会」修道院落成。ウニオピアとして司教認可)。
(1972年5月8日 イタリアのゴッビ神父が、ファティマにて聖母からの呼びかけを聞く)。
(1972年10月13日 ゴッビ神父他2人の神父が、司祭のマリア運動を始める)。
1973年3月16日 笹川が進行性難聴で全聾になる。
1973年5月12日 笹川が聖体奉仕会へ入会。
この時点で、姉との約束が実現(「修院へ入れたら、天国へ行ったしるし」)。
1973年6月 初代指導司祭が湯沢台を離れる。
2.恵みの準備段階(33日間)=影響範囲は笹川個人。
1973年6月12日 聖櫃から光1(3日間続けて3回)。
1973年6月13日 聖櫃から光2。
1973年6月14日 聖櫃から光3。聖体ランプの炎上(主の現存の強調)。
1973年6月24日 聖体から光、無数の天使1(3回)。
1973年6月28日 聖体から光、無数の天使2。
笹川の左掌の傷、出血(償いの出血30日間)。
(この左掌の傷により、笹川はご聖体を口で拝領)。
1973年6月29日(金) 聖体から光、無数の天使3。イエズスの聖心の祝日。
笹川の守護の天使の出現1(3回目に聖母へ取り次ぎ)。
1973年7月5日 笹川の守護の天使の出現2。
3.恵みの展開段階(102日間)=影響範囲は聖体奉仕会内。
1973年7月6日(初金) 笹川の守護の天使の出現3、聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ1〕(お告げは3回)。聖母像の右掌の傷、出血(犠牲の出血22日間?)。
(1973年7月7日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第1メッセージ「私はいつもあなたのそばにいます」)。
1973年7月27日(金) 聖母像と笹川の掌からの出血の終結。
〔1聖母像出血現象の説明〕(現象の説明は3回)。聖母像の傷は残り、笹川の傷は見事に消える。
(1973年7月28日 司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』第8メッセージ「警戒し祈りなさい 私の子である多くの司祭は、福音を裏切り、悪魔的な誤謬であるマルキシズムを支持しています」)。
1973年7月28日 伊藤庄治郎司教から3つの質問(回答はこの日を含めて7日後)。
1973年8月3日(初金) 聖母への取り次ぎ。
〔聖母からのお告げ2〕司教への答えを含む。笹川は捨石になる覚悟を表明。
真夜中頃、守護の天使が笹川を起こし、火事の危険を知らせる。
1973年8月4日 守護の天使が笹川をサタンから守る(この日を含めて3回)。
(1973年8月 聖体奉仕会の準会員制度が始まる)。
1973年9月29日(土) 聖母像の傷がなくなる。大天使聖ミカエルの祝日。
〔2聖母像発汗現象の説明〕。発汗を拭いた脱脂綿から天国的な芳香(17日間)。
1973年10月2日 聖変化の聖体から光。守護の天使の祝日。
ミサの参加者それぞれの守護の天使8位の出現。
1973年10月7日 芳香現象は15日までと予告。ロザリオの祝日。
〔3聖母像芳香現象の説明〕。小テレジアと大テレジアの記念日に特に強烈に匂う。
1973年10月13日 聖櫃から光、聖母像から芳香。ファティマ太陽の奇跡の日。
〔聖母からのお告げ3〕。
1973年10月15日 恵みの展開段階の終結。大聖テレジアの記念日。
4.恵みの維持段階(約1年間)=影響範囲は聖体奉仕会とその周辺地域。
1973年10月16日 ものすごい悪臭と蛆虫(3日間)。
1974年1月31日 守護の天使が、大雪で生き埋めになる危険から修道会を助ける。
1974年2月25日 守護の天使が、他のシスターへ祈りのアドバイス。
1974年3月10日 安田貞治神父が聖体奉仕会に着任、定住。
(聖体奉仕会では、笹川の入会と入れ違いのように司祭が去られ、不在だった)。
1974年5月1日 守護の天使が、マリア庭園造園計画を励ます。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使が、聖ヨゼフへの信心のしるしを表すように要請。
1974年5月18日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を予告。8月か10月。
1974年5月30日 聖母像の顔色が赤黒く変色。顔の表情も時々に変化。
1974年6月10日 夢の中で守護の天使が笹川の汗を拭く。
〔神学者からの迫害の予言的な夢〕。守護の天使が、隣室の蛇を知らせる。
1974年6月28日 守護の天使が、指導司祭として安田神父の任命を要請。
1974年8月8日 笹川の、安田神父の手術のヴィジョンのなかに3位の天使。
(安田神父が倒れられたので、笹川の耳の8月一時的治癒の可能性はなくなる)。
1974年9月21日 守護の天使が、笹川の耳の一時的な治癒を再度予告。
1974年10月13日 天使の予告どおりの耳の治癒。ファティマ太陽の奇跡の日。
(この予告どおりの一時的な耳の治癒に伊藤司教は勇気付けられ、この一連の出来事について、神学者たちに検討を願うことにふみ切られた)。
5.恵みの新たな展開(約1年半)=影響範囲は日本全国。
1974年11月3日 雑誌「カトリックグラフ」からの取材訪問の申し込み。
1974年12月 雑誌「カトリックグラフ」にトップ記事「秋田に聖母が出現!の噂を追う」。
1975年1月4日(初土) 聖母像からの最初の落涙現象3回。目撃20名。
〔聖母像落涙現象の説明1〕(説明は3回)。このときの涙、保存されていた血、汗で第1回目の検査。
1975年3月6日 聖母像からの4回目の落涙現象。目撃15名。
雑誌「カトリックグラフ」の米田記者来訪、聖母の涙を目撃。
1975年3月7日 笹川は昨日から頭痛に悩み、この日から再び全聾となる。
守護の天使が、再び全聾になった笹川を慰める。
1976年5月1日 聖母像からの5~8回目の落涙現象。目撃50名。
〔聖母像落涙現象の説明2〕。社会の第一線に立つ壮年信者の“安信会”メンバーが目撃。
1976年5月2日 聖母像からの9回目の落涙現象。目撃55名。秋田市内の医師4名を含む。
この2日間の“安信会”メンバーの目撃証言が、「カトリックグラフ」誌に掲載される。
これらの証言は、後に前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』に再録(前項参照)。
1976年5月13日 聖母像からの10回目の落涙現象。目撃35名。
「カトリックグラフ」誌編集長、山内継祐氏夫妻来訪。落涙現象を目撃(詳細は前項参照)。
(「カトリックグラフ」誌がほぼ独占的に報道。幾つかの週刊誌がこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映。逆にカトリック報道機関は意固地に黙殺)。
6.恵みの待機(約2年2ヵ月)=影響範囲は日本全国から近隣の国外へ。
1976年5月17日~24日 超能力説のエバンジェリスタ氏来訪、シスターの黙想指導。
これは1年前から氏に調査を依頼していた伊藤司教の賛同による企画。
安田神父は、三重県鈴鹿市の教会での講演で留守。笹川は、母危篤の報を受け郷里へ帰る。
この間に他のシスターたちは、聖母の恵みへの信念をぐらつかせる。
(伊藤司教は、東京大司教に頼んで調査委員会をつくって調査を始めてもらう。エバンジェリスタ氏はその調査委員会のリーダーとなる)。
この頃、伊藤司教は調査委員会の指示によりカトリック界の広報機関であるカトリック新聞に、“秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する”旨を公示。
1976年6月13日 笹川はエバンジェリスタ氏に個人的に呼び出され、洗脳工作を受ける。
守護の天使が、超能力者と決め付けられた笹川を慰める。
1976年6月14日 笹川はショックで桜町病院へ入院。3週間後、矢立温泉へ療養。
3ヵ月後、聖体奉仕会へ戻ってきても、雰囲気がガラッと変わって針のむしろの心地が続く。
この第一次調査委員会は、2年後の1978年に調査の結果としてその超自然性について否定的結論を出した。
7.恵みの発展段階(約1年間)=影響範囲は日本近隣国からさらに海外へ。
1978年7月26日 聖母像からの11回目の落涙現象。目撃46名。
第一次調査委員会の否定的結論を待ち設けたかのように、再び落涙現象が始まる。
1978年10月11日 聖母像14回目の落涙現象。カリタスシスター2名。笹川は帰郷中。
1978年11月6日 聖母像17回目の落涙現象。メリノール会、聖ヨゼフ会シスターなど。
1978年12月5日 聖母像16回目の落涙現象。目撃16名。ブラジル2名を含む。
1979年1月24日 聖母像23回目の落涙現象。目撃13名。静岡、京都。
1979年3月7日 聖母像25回目の落涙現象。目撃10名。韓国を含む。笹川は外出中。
1979年3月25日 26回目落涙現象。涙夥しく聖母像の台をぬらす。聖霊会シスター等。
1979年4月8日 聖母像30回目の落涙現象。目撃23名。笹川は外出中。
1979年5月6日 聖母像34回目の落涙現象。聖体降福式の間。笹川は入院中。
1979年5月10日 聖母像36回目の落涙現象。目撃17名。韓国シスター3名を含む。
1979年5月26日 聖母像43回目の落涙現象。目撃11名。韓国の呉神父を含む。
1979年5月29日 聖母像46回目の落涙現象。目撃11名。安田神父は留守。
1979年6月2日 聖母像48回目の落涙現象。目撃12名。笹川は外出中。
1979年6月23日 聖母像63回目の落涙現象。目撃は秋田市長はじめ市内招待客多数。
1979年6月26日 聖母像65回目の落涙現象。目撃13名。韓国カルメルシスター。
1979年6月29日 聖母像67回目の落涙現象。笹川ほか外出中。
1979年7月7日 聖母像70回目の落涙現象。目撃11名。笹川は外出中。
1979年7月13日 聖母像76回目の落涙現象。目撃10名。笹川ほか外出中。
1979年7月16日 聖母像79回目の落涙現象。目撃12名。安田神父は留守。
1979年7月24日 聖母像85回目の落涙現象。目撃14名。ケヌエル神父を含む。
1979年7月25日 聖母像87回目の落涙現象。目撃30名。高崎のヨゼフ神父と男女青年。
1979年7月31日 聖母像からの94回目の落涙現象。目撃16名。他会シスター3名を含む。
主なものを挙げたが、来訪者は北海道から沖縄まで日本国内。他に韓国とブラジル。
8.恵みの拡大段階(約2年2ヵ月)=影響範囲は世界各国へ。
1979年12月6日 「カトリックグラフ」の山内氏、テレビ局(東京12チャンネル)のスタッフ4名来訪。夜通し6秒間隔の瞬間写真をとるべくセット。第1回目は失敗。
1979年12月8日 落涙現象を目にしたテレビ局員が予定を1日延ばして再度挑戦。
夜8時ごろからの秒刻みのシャッターが、11時過ぎの落涙現象の撮影に成功。
この落涙現象の映像が、全国的に放映されることになる。無原罪の聖母祭日。
1980年5月 伊藤司教による第二次調査委員会の発足。
1981年1月6日 98回目の落涙現象。庄司神父と黙想参加者。(落涙現象は残り3回)。
1981年5月2日 ロンドン・ヒースロー空港でのハイジャック事件の犯人が、ファティマ第3の秘密の公開を要求。ファティマ第3の秘密は公開されないまま犯人は逮捕される。
1981年5月13日 教皇ヨハネ・パウロ2世狙撃事件。事件はファティマ聖母出現と同時刻に起こり、教皇はかろうじて急所をそれた弾道に聖母マリアの御手の働きを認められ、その銃弾は後にファティマの聖母像の冠に感謝とともに埋め込まれた。
1981年6月24日 メジュゴリエ(旧ユーゴスラビアの村)にて、聖母出現が始まる。
1981年8月4日 韓国のテレジア千さん(植物人間状態)に秋田の聖母として出現1(出現は3回、詳細は前項)。
1981年8月15日 韓国のテレジア千さんに出現2、目を覚まして起き出す。聖母被昇天祭日。
1981年8月22日 99回目の落涙現象。目撃44名。伊藤司教、林神父、ジャック神父ほか。
このときの涙を第2回目の検査のために提出。
1981年9月12日 100回目の落涙現象。目撃13名。カリタスシスター2名ほか。
伊藤司教の委嘱による第二次調査委員会の例会最終日。
伊藤司教の“認める”という意見に、メンバー7人のうち賛成4、反対3。
1981年9月15日 101回目(最後)の落涙現象。目撃65名。聖母のお悲しみの記念日。
1981年9月28日 大きな開かれた聖書のヴィジョン。創世記3章15節。
〔聖母像落涙現象の説明3〕。
9.守護の天使の特別な使命の終結と、笹川の耳の完全な治癒の恵み。
1981年12月9日 韓国のテレジア千さんにレントゲン室にて出現3。脳腫瘍の奇跡的治癒。
1982年3月 伊藤司教が第二次調査委員会の報告書をラッチンガー枢機卿に送る。
1982年3月25日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を予告。お告げの祝日。
1982年5月1日 守護の天使が、笹川の耳の完全な治癒を再度予告。勤労者聖ヨゼフ祝日。
守護の天使としての特別な使命の終結を告げる。
1982年5月12日 ファティマへ感謝のための巡礼中の教皇ヨハネ・パウロ2世、2度目の暗殺未遂事件。
1982年5月13日 ファティマでの演説で、教皇ヨハネ・パウロ2世は自身のことを「黙示録の証人」と語られる。
1982年5月30日 予告どおりに笹川の耳が完全に治癒、現在に到る。聖霊降臨祭日。
1982年9月21日 ヨゼフ・マリ・ジャック神父が、濱尾文郎司教の要請により論文「口での御聖体拝領に関する弁論」を提出(聖ピオ10世会ほかのサイトを参照のこと)。
1983年4月 韓国ソウルのカトリック教会、103人福者の列聖委員会が秋田の聖母による奇跡的治癒を公認。
1984年3月25日 教皇ヨハネ・パウロ2世が、世界各国の司教に呼びかけて“聖母マリアの汚れなき御心”に全世界と諸国民を奉献。この奉献が聖母の要請を充分満たすものであったかどうかは、種々異論のあるところです。
1984年4月22日 伊藤庄治郎司教が司教書簡により、秋田の聖母像への崇敬を公認。
1984年5月 秋田の聖母の奇跡的治癒に基づく申請書により、韓国の103殉教者が列聖。
いかがでしょうか、その構成の見事さ、展開の無駄のなさ。これがいったい人間ワザと言うことが可能なのでしょうか。荘厳さのみならず壮大ささえ感じるのは編者だけなのでしょうか。
<その祈り>
1969年 笹川が意識不明の夢の中で守護の天使から教わった「ファティマの祈り」。
「ああ、イエズスよ、われらの罪をゆるし給え。われらを、地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂をして、天国に導き給え。アーメン」。
1973年6月29日 守護の天使が一緒に祈った祈り。
「すべての民の御母」の祈り。
「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ、おんみの霊をあまねく全世界につかわし給え。しかして聖霊がすべての民の心に宿り、退廃と凶災と戦争から彼らを守らしめ給え。すべての民のおん母が、われらの擁護者(ようごしゃ)ならんことを。アーメン」。
この祈りを教えられたオランダのアムステルダムの聖母出現は、2002年5月31日ハーレム・アムステルダム教区長のヨゼフ・マリア・プント司教によって公式に認められました。
「聖体奉仕会」の創立三姉妹は会の草創期からこの聖母への信心を持っていて、その御絵が秋田の聖母像のモデルになっています。
1973年7月6日 聖母の最初のお告げのとき、聖母が一緒に祈る。
聖体奉仕会の祈り(伊藤庄治郎司教起草の祈りに「まことに」の一語が加えられる)。
「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心(みこころ)よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心(みこころ)に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉(たてまつ)る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨(みむね)のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。
幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」。
(このブログでは、コメントやトラックバック、メールやメッセージなどを一切受け付けておりませんので、よろしくご了承ください)。
Posted by hikari at 11:02
│旅行資料